北海道は天塩町が商いの原点
二代目は18歳の時に、北海道の天塩町(稚内から南に約70Kmほどの町)に住んで商いをはじめたと聞いています。
この人の名前は「幸吉(こうきち)」さん、体重100Kg以上の巨漢!今でも我が家に残っている彼の下駄は、真四角(普通の下駄は長方形ですが、かれの足は横幅が広いから長方形には成らず、真四角に成っている)なんです!今で言うお相撲さん体形というか、西郷さんみたいな感じ=ツンツルテンの着物を帯代わりに荒縄で縛っていた。胴巻き(腹巻)をして、現金はこの胴巻きに入れて持ち歩いたとか聞いています。明治から昭和の初めにかけてのお話しです。お得意先様からは、「幸吉さんは、豪傑だった」という逸話をタップリ聞かされています。僕が小学生の低学年の時に逝ったので、私自身は祖父の顔形の記憶はあるのですが、二人で何かについて話したという具体的な記憶は、残念ながら有りません。
幸吉さんの切り拓いた北海道の商流
金沢から醤油を送り、この天塩町を拠点にして近辺の開拓農家(主に乳牛を育てる畜産農家)に醤油を売り、集金してから、このお金で、帰り荷として、北海道産の材木(主に家具材)や海産物やジャガイモ等を金沢に持って帰ってこれを販売した、つまり往復で行きも帰りも商社的な商いをしたという事です。幸吉さんが、いろいろな方の応援や、現地での人との出会いがあったからこそ、この様な商流を切り拓くことが出来たのだと思います。
それは、私が20代後半(やがて30歳に近いころ)に初めてこの天塩町に物売りに行ったときに、会う人会う人から教えられたので、その経験(実感)は深く深く私の胸の奥に根を下ろし、『当時の幸吉さんが何を思ってここ天塩町に住まいしていたのか?』を考えました。我々のお客様は、主に、農協の組合員さんです。組合員さんのご自宅(牧場)を一軒づつ訪ねて、醤油&味噌を(富山の薬売りと同じ様な販売手法で)売り歩くというスタイルです。
一回北海道に行くときは、出入りで約10日間、個人宅を240軒くらい尋ね歩き、その他に周辺の街の商店に卸売りをするという仕事内容でした。事前にコンテナ2台を天塩町の倉庫に送って、それから自らは、4トン車を運転して、金沢から新潟港までは高速道路で、新潟港から小樽港まではフェリーで、小樽からは8時間ほど運転したら天塩町に到着というスケジュールでした。一回往復すると、3000KMほど走ったかと思います。
開拓農家の皆さんとヤマト醤油
開拓農家を訪ねると、日中は乳牛のお世話(えさ遣りと、牛舎の掃除=うんちの始末と藁の定期的な交換、乳牛の体の清潔や健康管理、種付けや出産、搾乳と出荷、牧草地の肥料遣りや、牧草狩り、等々山の様にやる事がある・・・)でほとんど自宅にはおらず、必然的に仕事場である、「牛舎」に居ます。購入の意思決定権者を探して、私が勝手に牛舎に上がり込んでお声かけをするというスタイルです。
「こんにちは~、金沢のヤマト醤油です。醤油と味噌を持って来ました!」とご挨拶すると、
「おおー、よう来たなぁ、待ってたよ~!」と言う方や、あるいは「醤油3本に、味噌2本」と短く要件だけ言って直ぐ仕事に向かう人やら、様々な反応なのですが、初めて会う私にとっての印象は、開拓農家の皆さんは、とにかく「明るい」「元気」「温かい」=「人との距離が近い」感じにビックリしました。また、牧場の牧草地の中には必ず水飲み場(牛用)があって、その水場には、「ヤマト醤油」のロゴマークが大きく書かれた木樽が置いてあります。牛用の水遣り桶として現役で使われていました。でも、その木樽はもう工場では使っていません。無いから貴重品や。
たぶんそれに醤油を入れて売り物として使っていたのは、25年から30年以上前の事ですから、「ひょっとしてその木樽は祖父の幸吉さんの時代からあるのか?」「そうだよなあきっと、そうでないと辻褄が合わないからなあ・・・・」って頭の中に浮びます。「あー、ここを幸吉さんも実際に商売に歩いていたのか」と思うと、とても感慨深いものがありました。
天塩町を襲った台風
ある年の、秋の商売で、天塩町に行った時は、大型台風がちょうど一週間ほど前に直撃したという事で、大きな牛舎の屋根が全部=これが台風の強風で飛ばされて、「無い!」
「うわー!いったい、どうなったんですか、これ?」
「いやー、先週の台風で飛ばされて無いんだ~…」
でも、牛は何にも無かった様に、屋根の無い牛舎の中で藁を食んでいました。…僕にとっては、想像の埒外で、とってもシュールな絵(現実)だったんです!
本当にその時の私は、掛ける言葉も見つけられない、という息を呑んだように胸が詰まる風景でしたが、開拓者は強かった!!! 次に聞いた言葉はこうでした。
「なんもなんも、これは大した事ないんだわ~、お隣の〇〇さんのところは、こうしてどうして大変なんだぁ~」と言う余裕の声=返し(に聞こえた・・・)。
僕は、その返しに、本当にオッたまげたという感じでした。
「凄いなあ~」「自然と立ち向かうというか、開拓者魂というか、そう思える人でないとここでは暮らせないよなあ・・・」「人間って、家族と牛(仕事)と大陸的な乾いたジョークさえあれば暮らしていけるんだなあ」って変な所で感動してしまいました。
それから、10年以上、春と秋の年に2回、この醤油&味噌の振り売りを続けました。
北海道ならではの楽しみ
北海道ならではの楽しみで、野蕗の摘み取り(背の高さも有る!)、山わさび、春の桜の花見とジンギスカン、秋鮭と鮭のチャンチャン焼き、鮭の筋子醤油漬け(ヤマト醤油でやるとメチャメチャ旨い!!!)も見つけました。
でも、ここもやがては過疎の為に人口が減って、人口が減ると醤油も味噌も使う人が減るから、自然と売れる量が減って、私が始めた頃の半分量しか売れなくなりました。
さて、どうしようかあ・・・・やがて冬を迎える稚内の港で一人ポツンと4トン車を運転していると、頭の上に憂鬱(売れない)と、独特の日本海の低い雲(曇天)とが迫ってきて、「探さないでください・・・」とまで思い詰める寸前になって、ふと創業者の藤松さんと、2代目の幸吉さんの気持ちを考えました。
あの当時、小さな船で、金沢から北海道(天塩町)まで来るなんて、今で言えば海外へ行くのも同然の仕事や・・・・そうや、それなら俺は海外で仕事をしよう! そうだなぁ…海外と言えば、一番はアメリカ市場やな!!!
爺さん達が北海道開拓なら、おら、アメリカへ市場開拓さ行くだ!
私が40歳。東京を通り越して、アメリカへ行こうと決意した時でした。
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店長:山本晴一
地元の酒造会社で修業を積んだのちに家業の「株式会社ヤマト醤油味噌」に入社。
修業時代の吟醸酒づくりにヒントを得た生の醤油「ひしほ醤油」を日本で初めて完成させた。
以来、フランスの三ツ星レストランをはじめ欧米の百貨店からも引き合いを受ける。
その後現在にいたるまで“あたらしい伝統食”を数々生み出している。
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